用宗の歴史

古くは水軍の基地となった城を有し
駿河湾の恵みとともに
歩みを続ける

用宗地区(用宗・広野・石部)は静岡市の西南端に位置する港町。豊かな自然と長い歴史を有しており、静岡市中心地とは全く異なる情緒ある風景を楽しむことができる。

持舟城の築城と廃城

「用宗」の地名の由来となった「持舟城」が今川氏の属将であった一宮元実によって築城されたとされるのは、1500年代前半のこと。東海道のそばで後方には山が、前方には海もあり、駿府守備のための要衝であったようだ。のちに侵攻した武田信玄に奪われ、さらに徳川家康に攻められるなど城の奪い合いが続いた。今川時代・武田時代・徳川時代を生き残った向井水軍の基地として機能した城でもある。1582年には武田軍が降伏し、廃城となったとみられている。

持舟城址
登城口から約10分、高台にある現在の城址
駿河湾の用宗港
持舟城址から見渡した用宗の街と駿河湾の景色。手前中央が用宗漁港

用宗漁港の発展

その後用宗の地は、港の誕生・発展とともに歴史文化を刻んできた。江戸時代の1800年代前半に編成された古書「駿河の国風土記」に、「安倍郡持舟往返の諸帆尽く此の湊に入る」との表現があり、「持舟」(現代の用宗)の文字が確認される。当時の持舟村は東海道のある手越原周辺まで入り江として海に面しており、隣接する焼津港とともに発展した。水深2500メートルの深海・駿河湾に流れ込む安倍川からの豊かな水が交わる漁港として、沿岸漁港発祥の地とも言われている。

漁船の大型化や周辺漁港の施設整備が進む中、「用宗漁港」も1960年代から漁港整備が進められ、水揚げ施設や冷蔵庫が整備された。水揚げ量は第二次世界大戦後、増加の一途をたどり1968年には全国の漁船が利用できる第3種漁港に指定された。

その後は漁獲量が減少し、漁港の規模は縮小。漁港西側に建てられた大型冷蔵庫は、利用されずにいる。現在はしらす漁を中心に特産地として正組合員200人弱の小規模な漁港として生き続けている。

用宗漁港
しらす漁船が並ぶ用宗漁港

近年は漁港周辺の整備も進み、2002年に一般のプレジャーボートが利用できる「用宗フィッシャリーナ」が完成、また富士山や駿河湾が一望できる「広野海岸公園」が設置され、週末には多くの家族連れで賑わいを見せている。

用宗フィッシャリーナ
用宗フィッシャリーナ
広野海岸公園
広野海岸公園

用宗駅の設置

漁港として栄えた用宗に鉄道交通の要所として、JRの駅が設置されたのは1909年。静岡駅から西に2駅というアクセスの良さで、開設当初は1日3000人、年間110万人が利用したという。オレンジ色の屋根のコンパクトな駅舎は、どこか懐かしくかわいらしい。後方にはハイキングできる山を背負い、駅舎からまっすぐ海側に歩けば5分ほどで海水浴もできる海岸に出られる。気軽に静岡市街地にも足を運ぶことができ、海や山にもアクセス良好な駅といえるだろう。

用宗駅舎
JR静岡駅から乗車7分で市街地とは全く異なる景色に出合える